めのおくのひかり
ねじりパンを目にすると大抵彼女のことを思い出す。
昼休みになると彼女はフロアの隅の空いている席で、もくもくと生野菜を食べ始める。毎日そうだった。そのことに気が付いたのは僕がコンビニで買ったパンを彼女の前で広げたとき。普段は殆ど外食で済ませていたのだけど、その頃は自転車のローンの返済のため昼食に使うぶんの小遣いを減らしていたのだ。その時僕が食べ始めたのがねじりパン。リボンのようにねじった揚げパンに細かい砂糖がかかった甘いパン。ツイストドーナツと商品名には書いてあるけれど、小学校の時からの刷り込みでどうしてもねじりパンと最初に出てくる。
にんじんスティックをぱりぽりとかじりながら彼女は僕の手元に視線を落として
「それ、おいしいですよね」
多分、そんなことを言ったと思う。僕は頬に付いた砂糖を落としながら頷くと、
「いつもサラダだけ?」
そう聞き返した。逆さまにした青い蓋の下に保冷剤が見える。透明なタッパーの中に詰められていたのはにんじんに、ピーマン、カリフラワー、紫色のアスパラガス。レタスとスティック状の大根。それとうんと小さいトマト。マイクロトマトという名前をその時彼女から教わった。
そのトマトを箸で器用に掬うと彼女は満足そうな表情で口に含んだ。ふっと何処でもない遠くを見るようにして、彼女はゆっくりとトマトを飲み込むと、
「食べるもののにおいが見えるのです」
トマトはこんなかんじ、そういって彼女は空中に指を走らせる。蚊取り線香の渦模様。
食べ物の匂いが目の前に透明な模様を生み出す。なんてことにわかには信じられないけれど、世の中にはそうやって色や味や匂いと言った様々な感覚が連鎖する症状がまれにあるのだと彼女は言った。匂いと形は関連があり、自分の好きな料理は大抵好きな形状を目の前に現す。彼女はそれを隙の無いかたちと言った。香辛料が強い食材はそのとがった匂いがそのままとげのようなかたちを取り、苦み、酸味、甘み、塩気、うま味などを基本として、かたちは様々に展開しているという。
「腐ったものが出てきたときは視界も最悪です」
そういって生野菜を口にしながら彼女は話し続けた。
「ですので、あまり手を加えない、そのままのものを食べた方が、視界も邪魔されなくて都合が良いのです」
「でも、外食はするでしょう? この間の飲み会も来ていたし」
「ええ、そのようなときは幹事の方がどの店が良いのか候補を挙げてくれます。かたちが美しい店は、たいてい味も良いのです」
この近辺の店は全部リサーチ済みです、換気扇情報で十分なのです。そう言って彼女はすこし自慢げにあごを上げ、ちらりと視線だけを僕の手元に落とした。
「ねじりパン、好き?」
「ええ……。そのパンは味もかたちも、私の知る食べ物の中で常に完璧を保っているのです」
そういって、すんすんと僕の方を向いて匂いを嗅ぐと、うっとりとした表情で宙をみつめた。僕は最後の一口をつっかえながら飲み込むと、うっかり今度買ってきてあげるよと、知らぬ間に言っていた。彼女は一瞬しまったという表情を見せたけれど、それでも嬉しかったのか頬を赤くしてどうもありがとうございます、そう微かな声で呟いた。
仕事を辞めた後の彼女と、久々の再会を果たしたのは病室だった。彼女は目に包帯を巻き白いシーツにくるまって、くったりと体を横たえていた。それでも、足音で気が付いたのか僕が病室に入ると半身を起こし、入り口の方を見て微かにほほえんだ。もともと飲んでいた薬の副作用で弱っていた目を、旅先で紫外線にやられ、白内障を酷くしてしまったという。
「どうしても、行きたかったんですよ」
そういって彼女は枕元を手で探ると、小さなアルバムを腿の上にのせた。私は今は見られないですけどね。そうはにかみながら開いた写真には、白熊が写っていた。真っ白の中にぼんやりと淡いクリーム色の固まり。目と鼻だけが黒く、背景の白から浮き立っている。僕は椅子を引き寄せ彼女の近くに座ると、ゆっくりとアルバムをめくって写真を一枚一枚見ていった。どれも似たような白く青い写真。僕は写真を見ながら彼女の意志の強さに感心していた。行きたいと思うだけではなく、そこに行くだけの力がある。ぼんやりした口調に反して、彼女の行動力は僕なんかよりもずっと大きかった。
「さむくて、でもその分美しかったです。それに、食事の匂いがどれもきらきらしていて。陽に透かして眺めていたら、あっという間に目をやられてしまいました」
「顔も、だいぶ雪焼けしてるね」
「そうなんです。紫外線が強いと知っていて、対策もしたのですが間に合わなかったみたいで。……包帯で隠れている部分は実はあまり焼けていないので、本当はしばらく退院したくないのです」
しょんぼりとうなだれる彼女の手に、僕はそっと紙袋を置いて見せた。近所で揚げたてを買ったばかりだからまだ暖かい。彼女は顔を上げ何かを探すように首を細かく左右に振ると、ほっとしたように表情を緩めた。
「覚えててくださったんですねえ」
「うん。良かったら食べて」
僕はその日の午後用事があったから、結局彼女がパンを食べる姿を見ることは無かった。その匂いでどんなものが目の前に現れるのか、そのことも聞きそびれたままだ。彼女にパンを買ってあげるという約束を果たしたことで、ただ満足していた。彼女は包帯をしながらも、匂いを嗅いで何かを探すようにしていた。視力が回復していない状況でもそれは見えるのだな、と思ったことだけは覚えている。
会社に長期休暇を申請したのはその直後だ。自転車のメンテナンスを済まし、必要最低限の荷物を担いで、僕はいつか見たイギリスの白亜の断崖を目指す。頭の中に思い描くその断崖の突端には、常に僕が自転車を携えて立っていた。
夢の中ではうまく走れない
何故自分がここにという戸惑いとともに記事を書いてみましょう。
夢で魘されることがまれにあるのだが、大抵は目が覚めた瞬間夢の内容は忘れてしまう。しかし、昨夜見た夢は現実に起こったことの再現。日中思い出しては、あのときの自分に忠告したくなった。もうどうしようもないのに。
実家に置いてあった本で、真っ先に捨てられてしまったのが、一番大事にしていて、引っ越し先が整ったら運び込もうと思っていたものだった。奥瀬サキ、川原泉、萩尾望都、その他にも今では入手が難しい漫画の単行本が詰まっていた段ボール。捨てたと聞いたときには本当になにも言葉が出なくて、親としては捨ててやったありがたく思えということなのだろうけど、ぼんやりしっぱなしの自分の姿を見て何かまずいことをしてしまったのかもしれないくらいは思ったようだ。ちなみに親からの謝罪は一度もない。大事な本だったのにとしばらくして立ち直った後に伝えたのだけど、放って置いた方が悪いと言われたような気がする。もう、その前後の記憶は曖昧だ。
それでも、未だに夢に見て、魘されるなんて自分でもいい加減忘れちまえば良いのにと思う。ネットで検索すれば手に入るだろうし、何より今それだけの本が増えたら何か別の本を整理しなければ、手元に置いておくのが困難だ。親に対しても、そういう人だからと、許す許さないの次元じゃないところで諦めている。自分の事だから諦められた。でも、夢に見てしまう。ののしって殴りかかることのできない相手を、夢の中で罵倒する。頭を掻きむしって発狂したように叫んでわあわあ泣いて、ちょうど失った本の分だけ穴の空いた体内を、叫び声で埋めるかのように。そうしてあの時の自分を慰めているのだろうか。叫び声が口の中でくぐもって、魘されるだけなのに。
本の中身が、どんな形で提供されていこうとも、私はきっとこのときのことを忘れない。折に触れ思い出しては自分の執念深さに自嘲するのだろう。
と、こんな感じの小説を書こうかなと言うメモを、ここに残しておきましょう。